Man In the MIrror

マイケル・ジャクソンが1988年にリリースした曲です。曲も歌詞もマイケルのパフォーマンスもすばらしく,今聞いても全く古くなく,私の中ではマイケルのベスト3に入ります。

Man in The Mirror はいうまでもなく,自分のことです。世の中を良い方向に変えるためには自分が変わらなければいけないというメッセージが繰り返されます。といっても,まったく押しつけがましくなく,自然とそのような気にさせる曲になっています。

経営も,経営者自身が変わらなければ,会社は変わりません。私は,この曲を聴くと,いつもそのようなモチベーションが上がります。

皆様にもお勧めします。

 

大欲は善,小欲は罪

仕事柄,さまざまな紛争や交渉に関わり,その顛末をみとどけます。また,事業の展開等についてもいろいろなケースを見てきています。

そのような中で,よく経験するのは以下のようなことです。

「大欲」,(大きな目標といっても良いです)を掲げてそれを目指すことは非常に良い結果をもたらす場合が多いです。それに対し,「小欲」,せこい利益取りを目指したり,小さな点にこだわる場合は,まずい結果になる場合が多いです。

例えば,難しい和解交渉でお金も全然取れなそうな状況だったとします。そこで,知恵を絞って,2億円を勝ち取れる状況になったとしましょう。これは,「大欲」を持ち張った結果が産んだものです。あるいは,自分が1億円払わざるを得ない状況で,1000万円まで減らしたというのも同じです。

ところが前者の場合でいえば,あと100万円などと欲張って,話しを壊す場合があります。後者の場合も,1億円払うところが9000万円減ったのですから万々歳なはずですが,あと50万円減らそうととか細かい条件をつけて,話しを壊しもとの木阿弥で1億円払わざるを得なくなることもあります。

人はえてして,大欲はもたないのに,小欲をもちがちです。人間心理からするとありがちなことではありますが,注意したいものです。

二兎を追わないものは,二兎を得ず

二兎を追うものは一兎も得ずというのは本当でしょうか。わが国では,「この道一筋」が尊ばれることもあり,余り疑問をもたれていないようです。

しかし,一度きりの人生(もちろんビジネスでも),何かを捨て去るのは惜しい場合もあります。もちろん,吟味した上で,不要なものはズバッと捨て去るべきです。しかし,そうでない場合は,「そもそも二兎を追うことが不利益になるという前提を疑う。」「二兎を得る戦略・戦術を練る。」ことに知恵を使うのが重要と考えています。そもそも「何かのために何かを犠牲にした。」という気持ちが残るのは,精神衛生上非常に良くないです。

例えば,仕事と家庭は完全に両立しますし,相乗効果も出せます。家庭を犠牲にして成功したとか聞くと,厳しく言えばその人の能力はその程度のものであるか,あるいは家庭のことをしたくないがためにそのような言い訳をしているのかとか考えてしまいます。

私は弁護士活動の中でも,依頼人の方のために,二兎とも得たい状況の中で,どちらかを捨てるという安易な解決ではなく,二兎を得る方法はないかといつも知恵を絞っています。そこにプロフェッショナルとしての価値があります。

ギブ & ギブン

ギブアンドテイクとよく言います。そのとおりと思います。ただ,「TAKE=とる。」という言葉になんとなく嫌な感触があるので,私は,ギブ&ギブンとしています。「与えて,取る。」ではなく「与えて,与えられる。」です。

これは永遠の重要な真理であり,最近では,ギブアンドギブアンドギブアンドギブなどと主張されている方もおり,そのとおりと思います。

ビジネスをしていれば(あるいは普通に生活していれば),経験的に,与えたこと以上のものが返ってくることを知っているし,仮に,そうでなくても「貸し」のまま一生を終えることは悪いことではありません。また,貸しはその人から返ってこなくても,別の人から返ってくることもあります。逆に,取っているばかりの人,借りばっかりの人が成功しようがないことも真理です。もう少し,俗っぽく言えば,いつの時代も,世の中は「貸し・借り」で成り立っています。これほど,役に立つ定理はないのに理解や実践できない人が多いのは摩訶不思議です。

ビジネスにおける「貸し」「借り」の使い方がうまく表現されているなと感じたのは,映画「ゴッドファーザー」におけるドン・コルリオーネを描いた部分,小説ではマシュー・クワーク著「THE 500」(アメリカのロビイスト会社を舞台にしたエンタテインメントです)です。いずれもその辺の機微がわかるしエンタテイメントとしてもおもしろいです。後者は少し露骨で誇張もありますが。

 

いわれなき批判や中傷を受けたりしたときの処方箋

経営をしていると,いわれなき批判や中傷を受けることがときどきあります。不愉快でいやなものです。そんなとき,私は,以下のとおり3つ自分に言い聞かせます。

1 批判や中傷(嫉妬,羨望に基づくものがほとんどです)を受けるくらいの成果を挙げたんだと自分を褒める。

2 そのようなことをいう人たちの言いなりになったり,気にしても,その人達がメシを食わせてくれるわけじゃない。自分のメシは自分で稼がないといけないと考える。

3 そういう人は,近いうちに勝手に自滅すると思う(事実,そのようになります)。

以上のとおり考えて,おいしい物を食べて,ぐっすり寝て忘れます。

まちがっても気にかけたり,反省したり,相手方に仕返ししようと考えたりしてはいけません。

日光の東照宮で考えたこと

宇都宮に出張に行ったので日光まで足を伸ばして東照宮,二荒神社,輪王子に参拝してきました。陽明門は残念ながら修理中で見られませんでした。実は,日光は初めての訪問でしたが圧倒されました。伊達政宗や黒田長政が奉納した灯籠や鳥居等も当時の徳川家の権勢を偲ばせます。

ところで,信長や秀吉にとっての東照宮はありません。家康が勝者,ナンバーワンであり,信長や秀吉は勝者になれなかったからです。これが現実です。

また,家康がなぜ勝者になったのか,長生きしたこと(健康で,戦場でも死ななかった)が少なくとも絶対的な必要条件であったことは間違いありません。身もふたも無いですか。一勝九敗でも再起できて最後に勝てれば天下を取れるし,九勝一敗でも致命的な敗北を喫してしまえばジ・エンドです。

ビジネスでは,一番を目指す戦略,そして勝つための死なない戦略,そして健康に留意することが大切であることを再認識しました。

東照宮の三猿。見猿,聞か猿,言わ猿。

東照宮の三猿。見猿,聞か猿,言わ猿。

 

 

 

運・不運

運・不運はビジネスの世界でも確実にあると思います。多くのお客さんとお付き合いをさせていただく中で,また,自分自身の弁護士としての活動の中で,いろいろ見たり経験したりしるなかで確信しています。

ただし,それは生来のものではなく,その人の考えや行動によりかなりコントロールできるような気がします。私が心がけているのは,「神様に嫌われないこと」。そのためには,「明るいこと」「素直なこと」「薄汚いことをしないこと」「きちんと挨拶ができること」あたりを当たり前に押さえておけば問題ないのではないでしょうか。

また,多くの人生の達人が,運の総量は一定であるとの考えをお持ちです。例えば,美輪明宏さんとか阿佐田哲也さんとか。全くその通りと思います。我々,弁護士は仕事柄,人の裏をみますので,世間からは一見完璧な人にも大きなマイナスの部分があることを知ってしまうことも多いのです。例に出して申し訳ないですが,某大企業の御曹司でカジノで身を滅ぼした人もそうでしょう。運の総量がある程度の幅に収斂するなら,どうでもいいことでは運を使わないこと,どうでもいいことで不運があったら喜ぶくらいでいること,戦略的にどうでもいいところで小さな不運を作っていくこと,大きな幸運がきたら浮かれずに警戒することである程度は対応できるのではないでしょうか。

私は,賭け事とかで負けても全然悔しくないですし,財布を落としても厄払いができたと本気で思っています。

闘わずに勝つのがベスト

闘わずに勝つのがベスト。当然のことです。我々,弁護士にとっての闘いの場は「裁判」ということになるでしょうか。しかし,裁判制度は,神様が天上世界からすべてを見ていて正義の判決を下してくれるわけではありません。人間である裁判官が法律と証拠に基づいて判断するだけですし,裁判官の能力差もあるし,裁判官も間違えることがあります。一般の方は,裁判になれば正義が実現されると思っているようですが,必ずしもそのようにならない場合も多数あります。その上,裁判は時間もお金もかかります。

われわれの事務所でも,かような現実をみて,なるべく裁判にしないことが依頼人にとってベストであるとの認識のもと対応しています。しかし,何でも譲歩していたら裁判にはならないでしょうが意味がありません。そこで,弁護士としての「絵を描く」能力が問われるのです。ベストのシナリオを書くには,やはり相手方の考えを見抜く洞察力や相手方の動きを予想する予測力が重要です。私は,子どもの頃「お絵かき」は最低でひどい絵ばかり描いていましたが,今やっている「弁護士としての絵描き」はかなり良い絵が描けていると自負しています。皆様も,弁護士に相談する際は,裁判になる前,しかもなるべく早く相談されることをおすすめします。

一つ例を挙げましょう。どうしてもやめさせたい社員がいたとします。そこで,いろいろ落ち度を探し,いきなり「解雇」をしていまう経営者がいます。しかし,現在の裁判例の考え方は,はっきりと労働者寄りであり,解雇を有効と認めてもらうには非常にハードルが高いし,手続きミスでもあれば解雇はすぐ無効となります。そこで,解雇無効を訴えられたり,組合に乗り込まれたりし,挙げ句の果てに大金を取られてしまうのです。

やめさせたい社員がいるときは,「解雇」に向けたシナリオをしっかりと構築する,そしてなによりも「会社にいなくなってもらうこと」が目的なのですから,「解雇」しなくてもやめてもらうようにすれば良いのです。相手方に退職届を出させれば,「闘わずに勝った」という大勝利です。そのような方法はいくらでも考えられます(決して違法な行為や,いじめで追い出すと言うことではありません。念のため。)。

山を登ったら山頂においしそうなミカンが・・

山を登ったところ,山頂にミカンの木があり,おいしそうなミカンが一個だけなっていました。その者は登山でのどが渇いていてミカンを食べたいと思います。しかし,「食べたら誰かに怒られないか。」「腐っていないか。」「そもそも一個だけあるのはおかしい。きっと,他の人も食べなかったんだ。」「山を下ればミカンはいくらでもある。」などと考えてなかなかミカンに手を出しません。

すると後から登ってきた人が「あー。おいしそうなミカンがある。」といってパッととって食べ,「あーおいしかった。」といって食べてしまいました。

最初に見つけた人が「僕が先にみつけたんだ。」と言っても手遅れです。

ビジネスでもこういう場面はよくあります。こんなとき,ミカンを食べられるのは「素直な子どものこころ」をもて行動している人じゃないかと思います。

私も,こんな場面では,神様に「いただきます。」と言ってぱくっとミカンを食べられる人でありたいと思っています。

 

徒然草より

徒然草は昔から最も好きな古典の一つです。多少の欲も肯定する現世的な人間くささと,達観した思想の絶妙なバランスが心地よく,つい引き込まれて何度も読み返してしまいます。また,兼好法師と対話をしているかのような気持にさせられる文章も心地よいものです。今日のブログでは,私が好きな段,なるほどと思う段を3つ紹介いたします。

双六の上手(第百十段)

かなり有名な段です。双六の上手にその手立てを問うたところ「勝たむと打つべからず。負けじと打つべきなり。」と答えたという部分です。ビジネスでも,少々の負けや損は仕方ないですが,致命傷を負ってしまえばアウトであり再起は非常に困難になります。ビジネスでは,一か八からの一発勝負は避けるのが鉄則でしょう。何事も粘り強く,決して「死なない。」のが大事です。

友とするにわろきもの(第百十七段)

「よき友三つあり。一つは物くるる友,二つは医師,三つには知恵有る友。」と書かれています。なんか身も蓋もない話しのようですが,実際の人付き合いや商売を考えると「現実」であり,私もそのような自分であるように気を付けたいと思います。兼好法師が現代にいたら,弁護士も加えて,よき友四つありとするか,友とするにわろきものに分類するのか,興味があります。

ある大福長者の曰く(第二百十七段)

ある大富豪が富める者になるための心遣いを述べています。その一番目に来るのが,「この世がいつまでも続くと考えるべきであり,決して無常観に陥ってはいけない」というものです。それはまったくその通りであり,「人はどうせ死ぬんだから。」などと考えたら,努力して事業を発展させようなどという気にはとうていなれないでしょう。私も,そのような無常観を言い訳にしてチャレンジや努力を怠らないように十分気をつけたいと考えています。